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tabaccosen

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○PETERCOOK.・・・「地球は宇宙の中心で

January 24, 2005
○「地球は宇宙の中心ではない」(Terra non est centra mundi) 「詩&物語の或る風景(2229)」 [ 批評 ]
○SUPER-STUDIO.PETER-COOK.・・etc.

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○NHK教育・新・日曜美術館で「建築の現在」のような番
組をやっていた。なぜか「現在」が、「あの時代」から始ま
るのも妙だが。SUPER-STUDIOや、PETRT-COOK.なのだから、
いわゆる、「ポスト・モダン」の影響は、話題化された割
には、パワー不足だったことの証明みたいなものだ。アーキ
グラムの主宰者・ピーター・クックは、「時代の熱気、欲求
」のようなものに触れている。確かに、あの時代の、あの感
覚は、BEATLES の延長に置かれる。ものだ。「愉しく」とい
う。[instant-city]などのコンセプトの明快さを、現代は見
失った。といってよいだろう。オイルショック、経済停滞、
政治の解体、民族紛争、・・・そうした「現実」の前に頭を垂
れた、「ポスト・モダン」という[駄々っ子]。「DADA」-ほ
どの分裂・狂気ももてない<運動体>の未来は、自らの姿が示
している。○しかし、ジョン・レノンが、ビートルズを離れ
yoko-ono との「活動」の果てに、銃弾に倒れたように。この
離反は、この時代の運命を予感させている。それらを、見通
したように「存在」した[SUPER-STUDIO] 。固体としての
建築への期待・可能を封殺するところで、その可能態を逆照
射する。現代技術文明の獲得した「存在のための器」「装置
」に対するものとして、ART的な感性は貧相すぎる。のか
もしれない。1960-70 年代のもつ「魅力的な諸相」。われわ
れは、やはり、この地平から、始めるべきなのかも知れない
。○[駄々っ子]は、DADAだ。[ポストモダン]は、鬼っ子
。そう訂正しておくべきかも知れない。しかしあの「時代の
諸相」は魅力に溢れていた。その延長を赦さない「現実」が
なにを意味していただろうか。なにに抗していたのだろうか
。POLLOCK のパトロンだった、ペギー・グッケンハイム、マ
ギーだったかな。彼女のセリフに、「しばらく、休もう。」
がある。才能の結集の時期にわれわれは出会った。贅沢な時を
過ごした。だから、しばらく休もう。というものだ。確かに
、それ以後のARTは、「停止」した。○それにしても、不
在をいうなら、彼女らの「家庭教師」の不在を、熟練の教師
たちの不在に言及すべきかも知れない。「現代美術」の痛烈
な批判者でありながら、創作者であり続けた存在者たち。○
ここでもわれわれは、ひとつの「不毛」に出会う。「批評」
の不在だ。「批評」の対象となるものがすでに存在しない。
なんでもあるが、なんにもない。偉大なキオスク、「大丸」。
誕生~解体の軌跡。DAIEI。現代文明のなれの果て現象。
辿り着いた「地平」は、『猿の惑星』ではないのか。(中)○
「ジャック・デリダの死」は、そのシンボルだ。批評という
行為の不在性のそれとして、捉えるべきかも知れない。まと
まりとしての「批評」は、ミシェル・フーコーあたりまでで
はないのか。以後は、対象の不在へと、それを求める視角と
の解離・位相性がみえるだけだ。「近代」というマッス。是
非はともかく。フーコーの「根拠」は、近代の「思考道具」
を意図的に回避したところに成立している。近代の道具、思
考の道具とは、「科学」であり、「実証的態度」である。自
己撞着の論理を内在化させている、それらの「論理」「回路」
からの脱出を、脱構築とよぼうが、なんと呼ぼうがである。
その指摘だけで、獲得しうる「名声」とは、現代が病んでい
ることの証なのだ。○われわれは、不思議な現実に出会う。
建築の設計者がいう。CGは、道具ではない。われわれの思
考と一体化したものと。[・・・]その脇に、4000年前の古代
ピラミッドの「迷路・回路」を置くと、かれらの「脳力」の
確かさを、再確認することになる。二進法・デジアナ・ゼロ
の起源・なんかそれほどてもないところを、グルグル廻って
いるだけだ。「科学」「CG」の活用が、高度の知を、保証
するものではないのだから。○『空間・時間・建築』で成立
したジークフリート・ギーディオンが、『機械化の文化史―
―ものいわぬものの歴史』では、その論拠を失っている。わ
れわれは、なににむかっているのか。喩えて言うなら、「ブ
ラックホール」だ。これから、ふただび、訪れる、黄色い禍
いのことだ。(中)○R・バンハムの『第一次機械時代の理論
とデザイン』が、ギーディオンを継承する。ポスト・モダン
は、それらを超越しようとする意図に満ちている。が、成功
しない。なぜなら、それは、ギリシア・ローマ文明に依拠す
るからだ。「機械論」が、ギリシア的な幾何学の世界以上の
ものを意味しないだけだ。それらは、トートロジーの迷路世
界をあてどもなく彷徨しているだけに過ぎないからだ。現在
進行中の世界的なトラブルは、前哨戦にすぎない。インド・
ヨーロッパの「逆流」が始まる。のかもしれないからだ。(中)


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